
An étude for l’empaquetage and self-portrait
Self Portrait No.41
発見し目撃し、記録すること。観察すること。保管すること。
もとは、自己を発見するためのプロセスだった。
自己は、リアル / デジタルの2軸を中心にして、その2拠点に散在する数々のコミュニティの中に分裂している。そして、それに時間軸と感情軸とが相まって、いちいち数えてみてはキリがないくらいに、日々自己の分裂は続いている。と、そんなふうなことを考えて、その一つ一つの自己を静止画に収めようと、そんなふうな心持ちで写真を撮っていた。
ところが、それをもっとシンプルに見るひとがいて、そうした行為を単なる「記録」だといった。
冷え々々する夜空の中、公園で缶ビールを片手に煙草一箱分はしゃべったような気がする。誕生から1世紀と半分くらい経つ写真の、未だ色褪せない根源的な価値がそれだった。写真を一生やれる理由が、なんとなしに眼前に顕れたようだった。
“ Eureka _ Imagine what's the rave, and what's the punk. Feel reverberation in your mind through what you've experienced today. You might have got brand new idea from your neighbors, or you might have realized how others thought of you behind your back. Kick them off, but put them aside in your head and make it reason living, which will be your provisions tomorrow. - 2024/4.20 ”
ところが、記録といって写真をやり始めても、どうもしっくりこなかった。ただ撮り記録するだけのことには、興味を持てないようだった。2021年の秋口からみると写真を始めて2年半ほど経った。進展の糸口を掴むべく、美術館に行った。気に入ったギャラリーブックを買って目を通した。興味を持ったアーティストの生い立ちを片っ端から見ていった。セルフポートレートと記録に関わる新たな手法は、そう簡単に見出せない。
2025年3月29日、Instagramの投稿から「L'empaquetage(梱包芸術)」というものを知った。翌日、それをテーマにスタジオでセルフポートレートを撮った。そのせいでぎっくり腰を患ったが、4月3日、セルフポートレートとして記録してきた自己や、メモ書きやiPhoneの写真、保存用のスクリーンショット、SNSのプロフィール、スナップ写真やスクラップを一枚のガラス板で圧着(≒梱包)した作品群 “practice of l'empaquetage” をつくった。
一体どんなステイトメントを添えようかと考えあぐねていたも、結局ここには、それに至った経緯を記すことくらいしかできなかった。
フランス行きはもう1ヶ月を切った。写真という写真をつくったのも、その4月3日が最後になっている。果たして向こうではうまく写真とやっていけるんだろうか。そもそも、写真と私は関わり合いを断たずにいてくれるだろうか。その先で何をすればいいのか、上の空でいるというのに。
- 2025年5月3日 長岡にて