
déjà-vu _ Maktub
Self Portrait No.40
昼過ぎに目を覚まし、ひどく喉に渇きを覚えてベッドからリビングへ出た。
卓上に置かれたコップは、透明な液体で半分ばかり満たされていたが、それが一体なんだったのか判別がつかなかった。むやみに飲むのを止めて、シンクに放り流した。
それからカップボード脇のストレージから新品の2リットルボトルを取り出して、目覚めから醒めたばかりのこの目の前で、水を注いだ。
注がれたそれが紛れもない水であることは確かだったのに、ものの数分、いや数秒、トイレや着替えでコップの前を離れている間に、それが一体何なのか判別つかない透明な液体に変わってしまった。
いつ注いだものなのか、なぜそこに置かれているのかが定かでなくなり、目覚めと同時に感じていた渇きをはるか昔のことのように感じ出す。
「デジャビュ」と「マクトゥーブ」という2つの言葉が指し示すのは経験という一つの事象だが、両者に介在する大きな違いは、〝他でもない自己が目にしたことか他の誰かに決定されたことか〟にある。
経験をどのように捉えるか。単なる偶然性の発見か、神秘性を伴う諦観か。
〝それは書かれている〟と訳されるこの言葉「マクトゥーブ」は、どうも長らく心に引っかかっている。コップの液体が何かわからなくなる。自分のやるべきことが何かわからなくなる。それは起こるべくして起こったのだと、超越的な存在が私の生きる中での出来事をそう決めて起こらしめているのだと、そうやって、運命に託すように楽観することはできない。あくまで主体は私なのだし、経験をいかに解釈するか判断できなくて便宜的な言葉で意味を埋めても、差し挟まれるのは空白に過ぎない。
