記録すること。意図するところは、そう難しいものではなかった。
百葉箱は、ただそこにじっと佇んで、辺りの気温と湿度を記録し続ける。
それは後々、当該地域の気象予測の一助になるだろうし、同様の地理を持った地域との対照比較にも用いられよう。記録された情報がその後どのように使用されるか、百葉箱としての価値がこのデジタル一等の時代にどう見られるかなどは、問題ではないのだ。黙として記録を続ける。それが百葉箱に課された絶対的な天命である。
私にも、黙としてその時々の自己の感情や風体を、淡々と撮り残すことができるだろうか。
私という一人の人間と、百葉箱との最大の違いは「意思の有無」にある。百葉箱とは違い、自ら選択を経て写真を選び取った。写真には、美しく見せる写真もあれば、何かを訴えかける写真、己の意図せんとするものを写しだ写真が出来上がり、すでに「記録」という元来の意味から遠く遥かへと離れ、恭しく展示され崇められる対象の一つへと仲間入りを果たした。
私は、現代ルネサンスのような古典気取りに成り下がりたいのではない。繰り返される時代の一切を無視してやりたい。
『この時代に生まれ、この方向を選び取り、時に幸福を感じ時に彷徨い歩くのも、全て一切合切、「決定」されているのだ。』
その言葉が胸のうちにこだまする限りは、私は木偶で、百葉箱であって構わないと思った。全てはその後に決定されるのであろうから。